Nov 30, 2011

突堤 (「私の力ではどうにもできない」)

小説の中に自分を見つけることがあります。或いはあるテクストの中に、ひとつの歴史を生きた自分を発見することがあります。抜け出せない過去に囚われて、生きることと美しさの岐路にいる自分。

 たとえば「穢れ」ということ。ある人の穢れは他人が決めることでしょうか。それとも、「幸せ」のように主観的なものだとお思いになりますか。実際には世間の考えを思って絶望し、身近なひとの言葉で立ち直るものです。その言葉の説得力は、すべて関係に依るものです。
 なにも皆が芸術のために自ら死を選ぶわけではありません。尊厳のため、これは、芸術よりももう一段、原初の感覚ではないでしょうか。
 尊厳とは社会的なものでしょうか。どこから立ち上るものなのでしょう。

 尊厳の問題が遠のけば、罪の感覚に襲われます。結局のところ、度量の狭さというのは自分に跳ね返ってくるものです。相手が赦せないのと同じくらい、自分を赦せないのです。

 どうしようもないことは、あります。ですが、決定的な間違いは決定的な間違いとして記憶されつづけなければなりません。その所を私は誤っていたようです。破滅が、ありきたりな思い出として改変されるとき、私は途端に居場所を失うのです。そして、穢れに、失われた尊厳に、罪悪感に、支えられて生きてきた自分の側面に気付きます。
 いいえ、本当はそのように格好のよいものではないのです。ありきたりに傷つけられたこと、ありきたりに傷つけたこと、ありきたりな、よくある普通の、そういった醜さに耐えられないのです。

 やりなおした先で行き着く場所があります。あらゆる関係は真っ新なままではいられません。そして、決して取り返しのつかない過去から遠く響いてくる、また別のどうしようも出来ないことに直面するのです。

 自死の美しさとは、醜く生きることとの比較により想定されるものだと思います。どうしようもない結び目のような過ちの後には「美しく生きる」というのが不可能であると。
 そうかもしれない、と思います。しかしそもそも過ちは自らの未熟さに起因するものです。克服できない未熟さというものが、あるのでしょうか。取り返しのつかない未熟さというものが。

Nov 16, 2011

思い出すには早すぎる(ことが多すぎる)

Cirque du Soleil のKOOZA ご覧になりましたか。
あれ見ると運動したような気になってほんとに体がほぐれたんじゃないかな?っと思いました。
思い出すだけでもほぐれた気になるから時々思い出してる。HAHAHA
ちょっと検証してほしい。ほんとにほぐれるかどうか。
適当なこと言ってる。


時代をまともに捉えないとまともなことは言えないと思うけど、
体壊してまで見る必要はないだろうし、
あと、どうしても付き合いきれないっていうのがあって、
ああ、こうやって人は時代から離れていくんだなぁとわかったような気になった。
(そしてそれが長期化して重くなると「もはや私の知っている世界ではない」というような
晩年のレヴィ・ストロース状態になるのかもしれない...。)

どうせ世界そのものなんて見れないけど、どうやって編集するか、という問題がある。取捨選択の。
世界の編集の重要な点は、できるけどしないことを設けること。

今こそ自分の持ち場でがんばる時だと思う。
そのために、情報収集の時間を削ってでも、自分のすべきことに潜る時間が必要で、
それこそが未来のためになる。なればいいな。

何が言いたいのかというと、時代の風にただまともに当たっていたのでは
この危機は乗り越えられないのじゃないかということ。
今こそ揺るがない独自の世界を持つべきだ。

思い出すには早すぎることが多すぎる。
今のことを思う暇もないぐらいの危機だから。
この時代のことは過ぎ去った後に思い出して、ただ今は最善を尽くすべきだ!

と、3.11以降何度思ったかわからないよ。

Nov 14, 2011

しいたけ生えた


しいたけはものすごい速度で成長する!
夏の朝顔かきゅうりかというレベルで!
(成長が早いことに対する植物喩えはそのぐらいしかできない)

前を通りかかるたびに変化がわかるくらい。
下にもっと生えてるけど(30本ぐらい)生えすぎなので撮らなかったくらい。

5年くらい前にも育てたことがあって、
その時はなぜか1回1本しか取れなかったので3回で3本だった。
だけど私はしいたけを食べるのがあんまり好きじゃなくて、
単にきのこ類を栽培したかっただけなので全然残念じゃなかった。笑

今回は収穫もいっぱいで楽しいよ ^_^ はさみで獲るのが。
しいたけ狩りおすすめ。もちろんおいしい。

Nov 9, 2011

Tong Poo

YMOの東風という曲がおいしすぎる。
ちょうどジューシー。

ピアノで人の曲を演奏するときに楽譜にないのに内声を足してみたり、
速度記号を破ったり、ジャーンの所をジャジャジャーンにしたくなって、
したくなるどころか、絶対こっちの方がいいじゃんと信じて疑わず、
先生の前で弾くとき以外は全部それで弾くっていうのを程度の差こそあれほとんど全ての曲で実行していましたが、

この東風という曲はなんと全部鳴ってほしいように鳴っているという信じられない曲。
こんなに願望通りに進む曲があるとは。
多すぎることもなく、ほんとにちょうどの感じがする。ちょうどすぎてfunny。
普通であれば鳴らなくて私が脳内で足すはずの音がちゃんと鳴ってる。

弾きたいように曲ができてるから、ブルグミュラーのアラベスクみたいに子どもに人気が出そう。


YMOを聴いて初めて「タイトな」ドラムということの意味がわかった。
ほんとにタイトだ。
わかってしまえばどうということはないんだけど今までピンと来なかったんだなぁ。
そういうのって何なの。

Nov 6, 2011

どうしても今を決めたい

かじったぐらいで知ったかぶりで学ぶことに対してオープンになれないここ数年。
「届いてないねー」とか思ってないで謙虚にならなきゃ。
これが何回言い聞かせても足りないのだ。

これじゃだめだ!今この瞬間から絶対生まれ変わる!と思って改心する癖も
子どものころからあって未だにやってしまうし、昨日もやった。

何度変わっても変わり足りない。

『コクリコ坂から』のこの台詞。
「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」 
「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」 
「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」
がーんってかなりショックを受けた。

生まれ変わった気分で満足してないで、
今死んでいく気分と、今生まれた気分の両方、

じゃなかった、
過去を向いた気分と、未来を向いた気分の両方、

じゃなかった、
今の気分、

じゃなかった、
ただの今、

何度捉え直そうとしても捉え切れない。

今しかなくないのはわかってるのにどうしても今を決めたい。
(決めたいっていうのは髪型をキメるとかそういう意味の)

統合と没入を同時にやりたい、というか、
そういう欲から離れてかつ自然にやってたい(という欲)。という罠。どうしたらいいの!?という話。

YMOに突然ハマって好きすぎてつらい。
AKBのライブは行ったことあるのにYMO行ったことない自分に腹が立ってきた。笑