一年間の療養をなんとか終えた。
いつ読んでも道元はキレキレ、漱石は文体が美しすぎ。
まったくもって療養生活は満足できるものではなかった。
なりふり構わず地を這うようにして生き、本当にぎすぎすしていた。
だけど療養を充実させるだけの力があったら、療養は必要ないわけで、
仕方ないことなのかもしれない、と思うようにしている。
この一年で私は自分の信頼を失うようなことを本当にたくさんしてしまった。
自分の自分に対する信頼なんて、これまで考えたことがなかった。
だけど体が動かずに、外に出られない日がたくさんあって、
食事を作ろうにも元気がないし、食材を買いに行く気力も持てないような日々を送っていると、
どうしても自分が嫌になった。
それに対して考えた対処法としては、ささいなことでもプランニングして、
その計画を必ず守るようにすること。
簡単なものでも自分との約束をひとつひとつクリアしていけば、
自分に対する信頼感が生まれる気がする。
客観的、あるいは主観的な成果がなくても、自分との約束さえ守っていれば、
自分に対する信頼感はそれなりのラインを保てる。
療養中は心が荒んで、性格というのは明らかによくなったり悪くなったりするものだなと感じた。
性格というより、気分を反映した行動や言動のパターンと言った方がいいのかもしれないけど。
「自分の感受性くらい」という境地に、初めて到達することができた。
私はこれまで茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩を、
感受性を自分でコントロールできるような強い人の詩として見ていた。
だけどもしかすると、何もかも失ってしまった後に、自分の領分が自らの感受性くらいしかなくなって、
唯一自力でコントロールできる感受性くらい、どうにかしようよ、しなきゃしょうがないよという詩なのではないか。
そういうことを考えていた。
私にどうにかできるのは感受性ぐらいしかなくなっていた。
療養の後半には本気でどこか宗教に入信としようと思って勉強していたけど、
自分の考えを半端に持ってしまっているために、なかなか踏み切れず叶わなかった。
最近は、精神衛生を保つために、瞑想したり祈る時間を毎日持つようにしている。
瞑想は、無を目指して、祈るのはいろんな対象に向けて祈っている。
瞑想とか祈りは、ウイルスバスターのようにはたらくと思う。
ノイズを捨て去って、心を清らかにしてくれる。
自分について考えるのは、できるだけ少なくした方がいい。
療養中に考えた、どう考えても毎日した方がいいことというのがあって、
それは、瞑想や祈り、運動、マッサージ。
マッサージは自分がどういうラインをもって生きてるのかということがわかるし、
自分に触れるというのは高度なことであると思うから。
すごく当たり前のこと、場合によっては綺麗事とさえ言われてしまうようなことの背後に、
どれだけの実感が込められているのか、しみじみとわかるようになった。
それで思ったのは、素直であることの大切さ。
(学問は疑うことを勧めるけれど、それ以前に、素直に受け入れる能力というのも
持ち合わせていないとすごく効率が悪いと思う。)
立派な人間になりたい。自分をよくしたい。
そういう風に思えることは、とても貴重なことだ。
なんとか、リスクを取って、すべることを恐れずに、生きていきたい。
No comments:
Post a Comment